9/3

オリエンテーションはどんなものでも退屈だ。

テストも面白くは無かったし、なんだかおもしろそうな人もいない。

英語力と行動力が自分より下のやつに合わせていくのは微妙に億劫だ。

もう誰かと行動するのはやめなきゃいけない歳なのか。

1人でも楽しめそうなスポットを探す努力をしよう。

 

 

でも英語を学ぶのは楽しい気がする。

英語でちょっと話すだけで楽しい。

映画も見に行こう。

一人の時間が長いと俺はどうしてここに来たのか妙に思い出せなくなるがそれも悪くないかもしれない。

それにしてもみんな思ってたより英語ができなかった。

次からはもうちょい平均的な学力が高い学校にしよう。

それでも講師と次週の時間は学校のレベルにいらず平等なのだ。

自分でがんばっていく決意をした。

9/2

ぼられた夜は悔しさと不安感が半端ない。

ぼられた額は日本円で500円くらいと気づいてずいぶん気楽にはなったが悔しい。

海外ローミングを日本のケータイ会社に申し込み配車アプリを使えるようにするのには2時間くらいかかったが色んな感情を清算するにはちょうどいい手間であった気がする。

 

配車アプリを設定して近所のバカでかモールに行ってお昼を食べて買い物をした。

でかい荷物を持ち歩く旅は2度と設定しないと心に決めたがぼちぼち楽しい。

入口で荷物検査(開けて見せる)をされるのだがでかでかとしたスーツケースは案の定止められた。

仕方がないので入口の横でスーツケースを開けようとしたら、開けなくていいから待ってろと。2分くらい待ってたらワンちゃんがスーツケースを嗅ぎに来た。

ステキ。いや怖いか

 

 

語学学校の人たちはなんだか微妙だ。

浅い関係の人間と親しむ必要がある時は美少女に生まれ変わりたくなる。

今から美少女には成れそうにないので英語を勉強しようと思う。

9/1

誰のためでもない文章が書きたい。

人々がtwitterに面白いことを書くのも結局は面白い自分を世界にアピるためであったりするらしい、

誰のためでもない自分のための文章に何の意味があるのか。

今の自分に満足するための言い訳をだらだらと書くことにはならないか。

でもやってみてからもう一度考えてみるのも悪くないと思った。

 

 

 

大学院入試のための約1か月の勉強を終えて出てきた旅は妙に不安だった。

語学留学という大義名分があるのは気楽だと思ってたがそのせいなのかもしれないと思った。

語学力や行動力をアピールするための旅行だと思うとなんだか気重だ。

チェックイン時間がギリギリになりそうなだけで不安になって走ってしまった。

せっかくの一人なのに誰かに見られているような嫌な感じ。

 

 

そう思っていたら飛行機の中では寄付が始まったり、言われたものを1番早く出す、借りない借り物競争のようなゲームが行われたりとなんだか楽し気だ。

見たことのない光景はいつでも楽しい。なんだか楽しくなってきた。

基本のカレー

f:id:tom_tonpk:20180806231939j:plain材料

玉ねぎ 2個

ジャガイモ 1個

トマト缶 200 g

ニンニク 2片

ショウガ 1片

スパイス

クミン、コリアンダー 大匙1/2

ターメリック、チリパウダー 小匙1/2

 

これまでとの変更点

ニンニクを 1片→2片 に変更

最後の煮込む工程を蓋無しで行った(失敗)

 

感想、反省点

煮込みを蓋無しで行ってみたらジャガイモにうまく火が通らずもう一度やる羽目になった、二度とさぼりません

前回から生トマトの代わりにトマト缶を使ってる。ちょっと甘すぎる感じがする。

一度くらい作る工程の写真を撮ろうかと思ったがそんな余裕はなかった、修行不足

「甘すぎる」と感じるのは単にスパイスが足りてない気がするので増やしてみよう

 

全てを経験しないと誰も信じないで生きていけない

 

こんにちは。

突然ですが皆さんは自分の周りの人間をどのくらい信頼していますか。

「この人に相談すれば大丈夫だ」

とか

「この人に任せれば全部安心だ」

と思う時はありますか。

僕は一切ありません。

この人はこう行動するだろうという行動への信頼はあっても人そのものや言葉に頼ることはありません。

結局自分が1番すごいじゃん

これにつきます。

しん‐らい【信頼】

 [名](スル)信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。「信頼できる人物」「両親の信頼にこたえる」「医学を信頼する」

信じて頼りにすること。頼りになるとしんじること。

ってすんごい他人任せな感じで違和感がします。

みんな自分の事そんなに他人に任せられるの?

信頼ってできる限りしたくない。

 

「若いね」とか「尖ってるね」って言うやつら

人を信頼したくないというとだいたい年長者はこう言います。

「時間が解決してくれるよ」とか「大人になればわかるよ」っていうのもよく言われますね。

関係ないけど年長者が若者を語るときのドヤ顔って凄い不快ですよね。

自分も昔経験したってだけでマウントとられるの吐き気がします。

 

人を信頼して起こる出来事に対して他人ごとになってしまうのが嫌です。

自分に起こるすべては自分に責任があると思えるのが理想だなと思います。

 

誰も信じたくないから色々やってみることにした

結論として誰の言葉も信じないで生きていくことが幸せの究極系です。

何かが下らないとか何かが面白いとか自分で決めます。

ヒッチハイクもサークル立ち上げもブログも皆に否定されたり肯定されたりしました。

新しい行動、少し目立つ行動をすれば決まって誰かは非難的なことを言ってきます。

最初はそれがとても嫌でした。

自分は間違った行動をしたのかと考えさせられたりしました。

でもあるときどんな行動でも自分の周りの誰か1人は非難してくるものだと理解しました。

それから非難の言葉を受ける程身軽になっていく自分に気づかされました。

非難の言葉は自分が誰も知らない世界に進もうとしている証なのだと感じるようになりました。

 

 

誰にも非難されない決断ばかりをする大人にならないように生きていきたいなあ

自己嫌悪は価値観の狭さを露呈しているよ

自分の見た目に自信がないんですっていう人は実は結構この世にいっぱいいるみたいです。そういう人達のコンプレックス意識っていうのは結構根強くて「かわいいよ!」とか「カッコいいよ!」とか言っても驚くほど響かない。最初は自分の伝え方が悪いのかと思って色んなアプローチをしてみたのだけどそういうことではなくそういう人たちの自信のなさっていうのは結構根深いものみたいだ。いやまあわかるよ今思えば子供のころさ、学校っていう閉鎖空間でさ日々自分の垢抜けなさみたいなものを見せ続けられるのって異常だよね。大人になってからそんな経験すること絶対ないし。

 

子供のころの閉じた空間における「自分はダサい」という価値観から抜け出せずにいる

結局これに尽きるんですよね。ダサいとか美しいとかって少しも明確な基準があるものではないのにです。「私目が離れててブスなんだよね~」みたいな。目が近いブスも目が離れている美人もこの世にはいっぱいいることなんてわかってるのに。

 

「どこどこの国では太った人がモテる!」みたいなテレビたまにやってるじゃないですか。

それで女芸人の人がある国の人には異常にモテるエピソードを言って一笑いみたいな。価値観が違うことは一般的には「可笑しい」ことなんですよね。でもさ俺らが持ってる常識なんて200個以上ある国の1つで大して外にも出ずにぬくぬく育って持った常識じゃん。痩せている人が美しいのも目が細いのが嫌なのも今の日本の常識でしかないんだよ。常識が何でできてるかってそこら辺の人の何となくの好みの集合体でしかないじゃん。そこら辺のおっさんとかの志向が入っているような常識に従うのなんてばかばかしすぎるでしょう。ましてや学生時代に言われたこととか考えた事とかそれ以上に狭い世界の話だよ。

 

 

見た目に限った話じゃないよね

見た目に限った話じゃないよ。それこそテレビで汚れ仕事をしてる女芸人さんだってそのモテる国に生まれ育っていたら超モテ女みたいな性格になってしまうかもしれないんですよ。逆に新垣結衣さんが太った人とか低身長の人がモテる国に生まれたとするじゃん。それで「私ブスだから…」ってモジモジしてたらちっちゃいことで悩んでないで俺と結婚しよ!ってなるじゃん。

 

結局のところ俺らの悩みの大体ってそんなもんですよ。周りの人にどう思われるかとか友達を失うかもとかもそういうものを大切にする教育を受けてきたっていう話でしかないじゃん。今自分が思っていることとか信じていることは1つも絶対的なものではないよ。いっぱいいっぱい色んな人の価値観に触れるのを恐れてはいけないよね。