言葉にすれば陳腐でありふれた話

 

引きこもりの兄が精神を病んで入院した。

 

完全な引きこもり歴で言えば2年行かないくらいであったと思う。

大学を中退する前からあまり外には出ていない印象だったけど。

 

もともとろくに話さない兄弟であったがここ数年は特にそうであった。

口を聞けば色んなことを聞いたり責めたくなったりしてしまいそうだったからだと今は思う。

 

病気になった兄を心配する気持ちは実はそんなにない。どうしてなのだろう兄に心配された経験も心配した経験も妙に少ない気がするから兄に対して心をうまくすり減らせない。なんだかんだ家庭環境による所があるのだとは思う。

 

心配じゃないから助けないという話ではない。もしこのまま働けなくなったら養うのは俺と1番上の兄貴(3人兄弟なのだ)だと思ってるしそれは別に良い。

一般的な感覚と違わなく、子供のころの兄貴は俺にとってヒーロー的だった。スーファミでもプレステでも連打してほしい時は兄貴に頼んだし件の兄貴は俺が小1の時小6で一緒に学校に通った。今思えばうざい時もあったろうに彼は友達と一緒にかわいがってくれた。うざがってるのを感じさせなかった彼はずいぶんと大人であったのだと思う。

そんな彼を養う時が来ると考えたら少し面白くもある。認知症の祖母を見ていてそんな考えができるようになった。ヒーローであった者のあられのない姿が見られるのだ。

 

 

 

母は最近イライラしている。昔からストレスがたまると家族に強く当たったりする人だった。誰かが怒っているところを見るとびくびくしてしまう性格なのでとても嫌な気持ちになる。なるべく母と会わないようにしている。

 

結局の所1番自分が悩んでいるのは自分に将来健全な家庭を築く事ができるかという事なのだと思う。もう20も過ぎたのだからストレスを抱えた家庭を自分が支えるくらいの気概を見せるべきだと思うのに実際には家族から逃げてばかりいる。22年間一緒にいる人間すら支えられない人間がどうして自分の嫁と子供を支えられるようになるのか。今の彼女を将来も幸せにしてあげたいと思っているのだが。

 

結局兄の一大事にこうやって自分の事ばかり考えている。この年になってまだいろいろなことを家族のせいにしている自分を見つけてしまってすごく不快だ。家族とよく向き合わずにこの年になってしまったし、その結果の1つが兄貴の事なのだろう。

まずは兄貴と面会に行ってみようと思う、前はまだ面会は無理だったが今は大丈夫だろうか。家族と行くのは気重なのでまずは一人で行こうかな。

兄貴と一緒に頑張るなんていうピカピカしたご都合主義な話じゃない。自分が強く生きるために必要な経験なのだ。